今の正直な気持ちは、寂しい気持ちと、解放感と、ちょうど半分くらいだ。
とてもやりがいに溢れた5年間だった。
決して楽しいことばかりではなかった。
明日のことを考えると、眠れなかった日は数えきれないし、
通勤電車の中で勝手に涙が溢れてくる日もあった。
だけど、それと同じくらい、嬉し涙も流した。
ああ、これからは髪の色も好きに出来る。
ネイルだって、可愛くできる。
服だって、スーツ以外を着てもいい。
いつだって、街の中で生徒に見られているかもと心配をしなくてもいい。
先生じゃなくなって、肩の荷が下りた。
だけど、なぜだろう。やっぱり少し寂しい。
大学4年の秋、教員の採用通知を受けた瞬間のことは、今でもはっきり覚えている。
郵便受けに入っていた封筒を開けて、合格通知を見た時、
すごくほっとした。
普通に就職活動もして、他業界もそこそこ受けていた私が、初めてもらった内定だった。
これを聞くと驚かれるかもしれないが、学校は、採用をもらったその1校しか応募をしていない。
当時、最終面接まで進んでいた予備校の面接を辞退し、学校を選んだ。
その選択が良かったと胸を張っては言えないけれど、
新卒カードで大企業に入っておけば良かったなんて幾度となく思ったけれど、
5年前と比べて、地に足のついたちょっとだけ凛々しい私を見ると、結果オーライだ。
私はもともと、自分を主張することが苦手だった。
人から嫌われるのが怖く、嫌なことがあっても、自分が我慢すれば済むと思って相手に伝えず、一人でイライラを抱え込むようなこともあった。
そんな過去の自分は、今から考えればとても幼く、人付き合いが下手だった。
ただ愛想が良いだけの八方美人だったなと、今振り返ると思う。
もちろん、人に注意をすることはほぼ無いので、生徒を叱っているときはなにか違う自分を、いつも演じているように感じた。
なぜ、普段使わないような乱暴な言葉を使って、大声で叫ばないといけないんだろう。
なぜ、そこまでしても、私は授業を成立させることすら出来ないのだろう。
そんな辛さばかりを感じた1年目、2年目だった。
そんな感覚がはっきりと変化した記憶があるのは3年目である。
私が副担任になったクラスの担任の先生は、誰よりも朝早く登校し、
誰よりも遅くに帰る。
休日も学校にきて、休み時間も、生徒を指導している。
自分のご飯は、菓子パンで済ませて。
どこまでこの人は自分を犠牲に出来るんだろう、そのくらい生徒思いの先生だった。
3年目を終えた時、副担任として私はこのクラスに何が出来たんだろうと本気で考えた。
私は、自分が傷つくことを恐れるあまり、自分を守ろうとするあまりに、生徒との関わりを蔑ろにしていたのではないか。
このクラスの中で、私はどこかよそ者にされているような感覚を覚えていたけれど、考えればそれは当たり前のことだった。
一生懸命に関わろうとしない者が、その場から疎外されていくのは当然のことである。
もちろん、人と関わらなければストレスは減る。
簡単に楽な方に流れ逃げていた私は、学校の中で一番大きな子どもだった。
逃げた分、大事なものを自ら手放していた。
手をかければかけた分だけ、生徒はそれに応えてくれるんだ。
その方がきっと、仕事が楽しくなるんだ。
今でも私は、そう黙って背中で教えてくれた、その先生が大好きだ。
そしてその後2年間、教員として働き抜いた。
生徒に今まで以上にぶつかっていった。
自分なりに。出来るだけ。
生徒たちも、ぶつかればぶつかるほど、応えてくれた。
反発もされたし、5年目なんて今までで1番生徒を叱ったけど、最後はお礼と花束をくれた。
何人も手紙をくれた。
そもそも私が彼らに教えたことよりも、私が彼らに教わったことの方が余程多い。
生徒がいるからこそ、私は先生だった。
空っぽのライブハウスで歌ったって無意味だとどこかのアーティストが言っていたように、授業を聞いてくれる生徒がそこにいるからこそ、私は教壇に立っていられた。
教員免許という紙切れ一枚を手に入れて、教師になったつもりでいたけれど、自分が何かを教えたなんて、とてもおこがましい。
本気で誰かとぶつかること、本気で誰かのために働くこと、嫌われるのを恐れず相手に伝えること、諦めずに接し続ければ気持ちは届いていること。
飾り気で嘘が無いからこそ鋭いこともあったけど、彼らの言葉には何よりも赤い血が通っていたように思う。
教員をやめるという大きなこの決断も、彼らがくれた。
このタイミングで、教員を辞めることは、もしかしたら勿体ない選択なのかもしれない。
だけど、私はこの選択を、次は胸を張って、良い選択だったと言いたい。
数年後、そう言える自分になっていたい。
また、その日までがむしゃらに、進んでいくだけだと思う。
最後まで読んでいただいて、本当にありがとうございました。